2月8日栄久庵憲司氏死去、85歳。
工業デザインの草分けのひとり、GKデザイン機構の大御所の訃報・弔事を
読みながら、いろんなことを考えた。評論家の柏木博氏によれば、日本では
50年代ころまで企業の製品デザインは社内の「インハウス・デザイナー」が
手掛けるのが一般的だったという。
独立した工業デザイナーで企業をクライアントにできたのは柳宗理氏くらい。
「独立したデザイナー集団を組織して、ビジネスを国内外に広げた
栄久庵憲司の手法はとても画期的だった」と、氏は評価する。(日本経済新聞)
同感である。
柳宗理氏の本題に戻そう。
その50年代、1952年、毎日新聞の新日本工業デザインコンクールの
第1回コンペが行われた。
それに応募して第1席を獲得し、100万円の賞金をもらった。
棚からぼた餅が落ちて来たような気がしたので、そのうちの一部を、
その前年に出来たばかりの日本インダストリアルデザイナー協会に寄付し、
残りを財団法人柳工業デザイン研究会を設立するための基金とした。
即ち賞金を私有することなく、当時のインダストリアル・デザイン界の
興隆に寄与したいと思ったのである。
事務所はここで財団法人柳工業デザイン研究会となった。
デザイン事務所で財団法人という組織は珍しいと思うが、
経済発展とともに文化的意味、特にデザインの倫理化ということを
趣旨としたため文部省の許可を得られたものと思う。
(『柳宗理 エッセイ』平凡社)
著者柳宗理氏が88歳で刊行した初の著作選集を手にし、思った。
「棚からぼた餅」賞金を私有することなく、
当時のインダストリアル・デザイン界の興隆に寄与したいと思って、寄付、
残りをデザイン研究会の設立の基金にしたとの弁、凡人には出来ることでない。
それは、1953年、氏の38歳のときである。
その4年後の1957年栄久庵憲司氏は、日本の工業デザイン史上
初のデザイン集団GKインダストリアルデザイン研究所を設立し、
卓上しょうゆ瓶や、オーディオセット、車や鉄道車両などの代表作を次々と放ち、
研究所から、GKデザイン機構という大きな組織を育て上げた。
先陣の柳宗理氏は、日本のインダストリアルデザインのパイオニア的存在で、
ナイフ、フォークから、道路、橋まで幅広い仕事を、
氏の研究会スタッフ5ー10名で、ワークショップが大切だという信条を持って、
シンプルで丸みのある、素朴な民芸の精神を生かした作品で
日常の美を追求し続けた。
氏の代表作で世界的なベストセラーになった蝶の羽の形をした椅子
「バタフライスツール」などは、
常に氏の信条としたワークショップから生まれているだけに、
素朴な民芸の精神が宿っているのだろう。
それ故に、世界の人々から愛され続けているのだ。
それは、けっして棚からぼた餅が落ちて来た産物でなく、日常の美を追求し続けた
努力の賜物だったと、私は今も確信している。
(喜多謙一)