生れは群馬県だが、山紫水明の岐阜に縁あって住みついたという金子さんは、
福沢諭吉の大ファンで、もちろん慶應を出ているし、
先日も浜松町(大門)のわが社に寄られた時、
福沢諭吉がこのあたりに住んでいたと捜し歩くような人である。
(『野次喜多本』より抜粋)
昨年の真夏、7月26日から7月31日まで名古屋の栄にある、妙香園画廊で
『野次喜多本』100人似顔絵展 黒澤淳一・画 を開くことを決め、
100人のうちの一人、岐阜の金子さんにも声をかけたところ、
足が弱くなり名古屋に行くことが難しいというので、
せめてご挨拶にと、私が岐阜に電車で行くと電話を切った。
それを友人が聞いていて、真夏の岐阜、熱中症にでもなれば大変と気使いし、車を出してくれた。
何年ぶりかの楽しい再会を終え、久しぶりに岐阜を後にした。
7月27日、展覧会が始まり、初日テレビの取材があった。
夕方5時過ぎの、中部地区エリアの「テレビ愛知」のニュース番組で紹介されたところ、
岐阜の金子さんから茶の間で「テレビ見たよ」と、嬉しいお電話を貰った。
ここでもテレビ、マスコミの凄さを再認識した。
後日、9月25日、名古屋の友人から彼が「ご逝去されました」とお電話を貰った。
すぐに、彼の「お別れ会の案内」が届いた。何と人間と言うのはもろいものなのか、
彼からの「テレビ見たよ」は、私には彼からの最後の言葉になった。
思い出というのは人を楽しませるものであるが、時には人を寂しがらせないでもない。
私には、彼からの「テレビ見たよ」というひと言、それは、寂しいが、
歳を重ねると“ちょっといい話”近くになり、私の心に強く残っての9月の一周忌になった。
合掌。
(喜多謙一)
(『野次喜多本』より 1984年のロサンゼルス五輪のマスコット)
金子さんはブラザーの一番の情報通で、1984年のロサンゼルス五輪スポンサーの話しも彼の友人が持ち込み、
ブラザーは民間企業スポンサー第1号になったことは、歴史に残る壮挙。ここで記しておきたい。
その後の五輪は、すべてスポンサー付きとなっている。